ちょっとした自己紹介を。。。
名前:尚子
誕生日:1月24日
出身:広島県(生粋の日本人です)
在住:オランダユトレヒト市
趣味:ピアノ、料理、旅行
両親共に小学校の先生という家庭に生まれます。
私の母は私が生まれる前に2回の死産と2回の流産をしたため、私は5人目、戸籍上は三女です。2回の死産の原因は、産道が小さかった為、本当は自然分娩をしてはいけなかったそうです。ということで、私は帝王切開で無事誕生。何度も同じ所を切ることはできないから、帝王切開で産めるのは二人までという医者の元、3年後弟が誕生。こちらは胎盤剥離で母子共にかなり危ない状態だったそうですが、今はこの二人がうちの家族では元気な人達(笑)。
という背景もあって「蝶よ、花よ」と育てられました・・・というのは大嘘ですが、大事に育てられたのは確かです。ある意味過保護!? でも両親共に教育者だったので、躾に関してはかなり厳しかったです。周りにもそういう人が多かったので、「口の中に物を入れてしゃべるな」とか「刺し箸は駄目」とか「敷居は踏むな」とか「ドタバタ歩くな」とか、いわゆる昔風の躾ですね。というわけで、お稽古事も3歳(?)からのピアノを始め、小学校に上がる前からのお習字、小学校に入ってからの通信教育(「赤ペン先生」だったか?)とか、音楽にのめりこんでからはソルフェージュやフルートなど増えていく一方でした。ま、そういう教育方針のおかげで外に出てから恥をかくことは余りなかったと思います。
ただ学校生活はかなり窮屈でした。というのも学校の先生がみんな両親を知ってるわけですから。両親のどちらかと元同僚という先生方も結構な数いらっしゃったはずです。基本的に小心者で、超がつくほど恥ずかしがり屋だった(はい、過去形です・・・)私は、その環境で仕方なく「良い子の優等生」を演じてました。ということもあり小学校高学年で「受験する!」と宣言し、塾通いを始めました。
その当時かなり音楽にハマっていた私。習っていたピアノの先生が地元の進学校である中高一貫の女子校出身で、地元の音大生。「彼女のようなかっこいいピアノの先生になりたい」というのが私の夢だったんです。なので、なんと言うことはない向上心があったとか、そういうすごい理由とかがあったわけではなく、単に彼女の影響なんですね、中学受験を考えたのは。ま、父親のほうは理由なんかどうでも良くて娘が勉強する気になったのは喜んだようで、色々勉強をみてくれたり、宿題を手伝ってくれたりと、かなり協力的でした。
ま、色々やった割には成績はたいしたことはなかったので、受験は1勝1敗。結局、某大学の付属中学校へ行くことになりました。でも少人数で「学校教育学部(学校の先生になる専門の学部)」の付属だったので、最終的にはとてもよい教育を受けたと思ってます。なので高校の時より中学の方の記憶のほうがはっきりしてますね。今も仲の良い友達は全て中学時代の友達です。
地元の中学に進学せずに受験したので「よし、これで親の呪縛から離れられる!」と思っていたのですが、同じく小学校の先生をしていた伯父の大学時代の同級生と後輩が今度は私の中学の先生でした。。。ということで時々伯父からその先生方にチェックが入っていたようです。「うちの姪っ子はどうかいな?」と。
ちなみに一応進学校だったこともあって、中学で既に飛びぬけて頭のいい子というのが何人かいました。彼らは私にとっては別の星の人間でしたね。記憶力とか思考回路とか全然一般人の私にはついていけませんでしたから。そういう人達はみなさん医学部とかにいって今はお医者さんになってらっしゃいます。持つべきものは偉くなった友達です、はい。
で、凡人の私は既に音大へ行くことを目指していたので、あっさりお勉強のほうは捨て、レベルは低くとも家から2kmという近所にある地元高校へ行くことに決め、受験勉強らしいことは何一つせず、ピアノとフルートの練習だけやってました。ということで勉強もせず、さくっと高校に入学し、ろくに勉強せずにそこそこいい成績をとり、そのまま卒業しました。
高校時代はどちらかというと音大進学の為に学校が終わると家にすっ飛んで帰ってピアノをさらうか、ピアノやソルフェージュのレッスンに通ってるみたいな生活だったので、あまり学校の思い出というのはないですねぇ。それ以外には将来音楽をするのに絶対必要だよなと思っていた英語のレッスンくらいですか。
音楽のほうはあまり才能はなかったのですが、あれも続ける努力をすればある程度までにはなるんですね。まぁ、厳しくてよい先生に恵まれたこともあって、東京の志望校に現役でスパッと入りました。なぜ東京かというと、窮屈な親元から離れたかったから。
大学に入るまで知らなかったんですけど、うちの音大は「花嫁修業の学校」と巷では言われていました。確かに世間知らずのお嬢さんが多くって、ある意味すれてないかわいらしい人が多かったです。「あなたはピアノだけ弾いてればいいから」って言われて育ちました、みたいな人達です。なので一般庶民の私も「お嬢様」というカテゴリーに入れてしまったわけです。ま、興味もあってその頃ちょうどお華やお茶をやっていたこともその「お嬢」ぶりに発車をかけてしまった訳ですが、意図してやっていたのではないので念の為。
始めて親元から離れたこともあって、それまでの反動か大学4年間は気合入れて遊びまくりました。その頃には父親のDNAをしっかり発揮し、毎晩浴びるほど飲んでドンちゃん騒ぎをしてました。といっても大抵はどっかの合コンの人数あわせとかに呼び出しをかけられ、私は純粋な盛り上げ役で終わってましたけど。でもそのせいか私の周りには絶えず色んな男性がいましたが、この頃はあんまり真面目にお付き合いはしてませんでしたね。広く浅くって感じですか?
ピアノの方はなんとなく壁みたいなものを感じていて、どうしようか迷っていた大学4年の時に大学の先生がいつも参加されていた音楽祭に私も行くことにして、そこから「海外留学」を考えるようになりました。ま、一度決めたら行動力だけはあるので、あっという間に留学先と師事する先生を決めて、あとは親の説得だけ。この辺は要領を得てるので「勉強の為」とあっさり納得させて了解をもぎとり、気がついたらオランダに来てました。
元々留学を決めた理由は室内楽をやりたかったから。なので、相手さえ見つければ色々弾いてました。気がついたら、アマチュアコーラスの伴奏だの、作曲家の初演とか、CDレコーディングや、ラジオ出演、コンサートツアーとか、かなり忙しくしていた学生時代でした。こういう校外での活動も単位に認められるので、レッスン以外は全部この校外活動で単位をもらって卒業しました。でも悲しいかなこれだけじゃ食えないんですよねぇ。。。
で、学生時代最後の年にどうしようかなぁと迷っていた頃に出会ったのが今の彼。卒業の頃にはまだ半年しか付き合っていなくてこれは悩みましたね。「日本へ帰れば音楽は続けられるし、食いっぱぐれないだろう」or「オランダに残るんなら、食う道を考えないといけないから、音楽を続けるのは難しいなぁ」。最終的には「なるようになるさ!」とオランダに残ることにしました。
そこからは大変。学生ビザだと働けないし、音楽以外はアルバイトしか経験なくて、会社勤めなんかできるの?って感じ。で、解決案は「労働許可をとってくれる日本企業で英語と日本語が使えるからと言って働く」こと。そうと決めたら後は行動あるのみ。オランダ日本商工会議所に電話をして、その当時の就活の情報を聞き、そこに登録してある日本企業のリストを買い、あとはアルファベットのAから順番に電話かけまくりました。
Kまでかけて大体100社。そのうち「履歴書を送ってください。」と言われたのが約10社。そのうち3社から面接に呼ばれ、とうとう1社に就職が決まりました。ということで、すぐにOL生活が始まりました。もうとにかく戸惑うことばかり。ワードのタイプ位しかできない人がいきなりオフィスワークですからねぇ。今考えても「よくあの会社、私を雇ったな」と思いますが、それだけ当時人手不足だったということです。そこでエクセルという存在を知り、コピー取りも1枚ずつではなくて資料を纏めて何部コピーしてホッチキスでとめるなんていう、今でこそ当たり前と思えるやり方を一つずつ覚えました。
その会社では色々よくしてもらいましたが、ここには書けない理由(笑)でやめることにしました。その時に募集を出していたのが日系の銀行。世の中のことを全然知らない私でも知っている銀行名だったので、駄目元で応募したらなぜか雇ってもらえました。今でも雇って頂いた元上司はすごい英断をしたなぁと思います。まぁそれはおいておいて。
銀行という特殊な環境で、しかも現地採用の日本人は女ばっかりで、私が一番年下のペーペーというこれまた特殊な環境。やっぱりここには書けない色んなことがありました。私も若かったし、それだけ生意気だったってことですねぇ。随分人生勉強をさせてもらったと思いますが、その時は正直やっぱりきつかったです。その環境から抜け出したくて「なんとか転職してやる」と思ったわけです。
とはいえ簡単に転職できるほど甘い市場ではないんですね。外資を狙うと必ず言われるのが「あなたには学歴がない」と。つまり音大はこちらでは「大学」のカテゴリーには入らないわけです。頭にきましたね、馬鹿にされた気がして。「それなら学歴をつけてやる!」と思ったきっかけが、その当時うちの彼がMBA(経営学修士)を取るために通っていたビジネススクールの宿題。生徒5人で企業の財務諸表を分析してみんなで協力してレポートを書くという宿題だったんですけど、それって普段私が銀行でやっていた仕事と同じ内容。MBAの卵が5人もいて(その中にはオランダの銀行員もいたにもかかわらず)それができなくてと毎日喧々囂々やってるわけです。その喧嘩に近い話し合いを聞くのが嫌になって結局私がそれを代わりに仕上げたんです。「ビジネススクールの授業ってこんなに簡単なら、私だってできるかも」と思えたきっかけです。それで私も同じ学校へ行くことにしました。
とはいえ、そんなに簡単に学歴は取れませんでした。当たり前ですけど。毎授業すごい量のテキストを読まされるし、試験、レポート書きに追われて、私生活は全くない2年を過ごしました。ちょうどその頃仕事も忙しくって毎日家には寝に帰る生活だったので、体力的にも精神的にもかなりきつかったですね。でも、そこで学んだことってかなり役に立ったと思います。授業の内容より、ポイントつかんだ資料の読み方、勉強の仕方、レポートの書き方などなど、勉強するという過程で学んだことはたくさんありましたね。あと、西洋式の思考回路も。
で、そういう生活に限界もあって転職しました。念願の外資系の銀行へ。オランダの某銀行だったので、日本人の皆さんには「なんで今より格下の銀行へ行くわけ?」と随分言われましたが、私の中では外資系銀行のほうがかっこよく見えたのと、日本人同士の諸々から逃れたかったのもあります。で、期待いっぱいで入った銀行でしたが、そこの銀行で学べることが余りに少なかったこと、ビジネススクールまで行って得た知識はそこでは無用の長物。「このままだと私はここで成長できない」というあせりもありました。ただ修士論文がとにかくなかなか終わらなかったので、それだけ片付けてから就活をしようと自分の中で決めて、とりあえず論文を片付け、それからまた就活。運よくすぐに次が見つかり、結局別のオランダ(現イギリス)の銀行へ就職が決まりました。
こちらでは毎日がとても充実していたし、色んな経験もさせてもらえました。出張とかもあって体力的には大変でしたが、とにかく好きなことを好きなだけさせてもらえてたので、楽しかったですね。ただオランダの場合、新しい仕事に就くと大抵はまず1年契約で、その後やっと永久雇用契約に切り替わるんですね。運悪くその頃に金融危機が起こり、銀行はそのあおりをくってガタガタ。そんな中見つかったのが私の癌。始めは1度手術すれば終わりと言う話だったので、そのまま復帰するつもりだったのに、手術中に検査では見つからなかった癌が見つかり、治療方針はどんどん変わっていき、ずるずると治療は長引く一方。銀行のお財布事情はその間どんどん厳しくなり、最終結論は「ジャパンデスクは閉鎖」。はい、クビですよ、私。ということで泣きっ面にハチってこのことか?と思えるくらい事態は最悪な方向へ。
でも物事は考え方次第。オランダは社会保障がすごく整っている国なので、手厚い失業保険がもらえます。治療だって自己負担は健康保険だけであとはゼロ。しかもこの状態では就活なんて無理という判断されるので何もしなくて良いわけです。これこそチャンス!とばかり、旅行したり、好きなもの買ったり。イタリアへ料理修行に行ったりしましたしね。(笑)ま、この辺はブログの中に詳しく書いてある通りです。なので、逆に仕事があれば調子がいいときはパートタイムでも何%かは働かないといけないわけですから、クビのほうがいいじゃん!とも言えるわけです。と言うわけで、これまで払い続けた高い税金(オランダの所得税の最高税率は52%!)を取り戻すべく、スローライフを満喫している最中です。
ちょっとした自己紹介のつもりがこんなに長くなってしまいました。最後まで根気よく読まれた方、どうもありがとうございました。
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