2009年12月31日木曜日

編み物

最近、暇に任せて色々編んでます。で、編み物熱が復活。昔からこまごまと編んでいたので、手編みのものがそんなにすごいという意識は無かったのですが、どうやら世の中ではすごいらしい。

今年の年明けにフランスの友達宅で編んだベレーは、ショートカットになって以来かなり愛用していますが、これがめちゃくちゃ評判が良くて、すでにこれまで2つ編んで人にあげて、さらに欲しい人が増加中。というわけで、自分の物は既にいるものがないので、人のものを編んではあげる、編んではあげるというのが当分出来そうで、喜んでます。

帰省中は母親のセーターを編む羽目になり、今はそれにかかりきり。おかげで、少々手伝いをしなくても無罪放免になるという特典もあり、今のところ喧嘩もせず平穏無事な実家。意外と編み物って使えるわ~っ。

ベビーブームの私の周りにもプレゼントを買うのではなく、編み物で済ませちゃえ!という持ち前のケチ根性で、ついついベビー用の編み物本までゲット。そういう意味では日本は何でもあるんだな~。あまりにも可愛いので、日本にいる間にでもすぐ編んで姪っ子にでもあげよっかなぁ。。。というわけで、時間が有り余るはずの日本旅行も意外とやることができて忙しくしてま~す。

フォト婚

友達のフォト婚に無理やり招待させ、無理やり出席しました。ずっと日本にいないので、結婚した友達の結婚式なるものに参加したことがなかったし、友達の花嫁姿が見たかったというのが理由。でも、無理を言ってよかった~~~。結婚式なるもの、周りまで幸せにするパワーがあるというか。

最近は人の写真を見る機会が多く、私もフォト婚してみようかなぁとなんとなく思っていた矢先だったので、ついでにフォト婚のあったスタジオでそのまま資料請求までしちゃいました(苦笑)。広島なら宮島でなんて簡単に思っていたのですが、あそこは人気が高すぎて結婚式でないとだめらしい。。。ということで、縮景園あたりを今考えてます。http://shukkeien.jp/

で、ついでにその話を両親にしたら、もう結婚はしないと思っていた私からそんな話が聞けるとは思っていなかったようで、「じゃあ、モーニングを着ようか」なんて張り切って言い出す父親。。。えっと、フォト婚だから私と彼だけの写真じゃないんだっけ?って感じでちょっとびっくり。「お金は出すから」なんていって、超乗り気。。。う~ん、簡単に済まなくなりそうでちょっと困った。。。

胃カメラの検査結果

検査結果を電話でうちの彼が受けてくれたそうで、結局異常なしとのこと。ほっっっ。

とはいえ、依然、動物性蛋白質があまり食べれないので、外食時はかなり気を使います。。。(というか、みなさんに気を使わせてます。。。)その点、日本食は野菜が多いのでやっぱり楽ですね。

2009年12月17日木曜日

胃カメラ 12月16日

今日は、内臓検査の為胃カメラを飲みました。これは血液中のビタミン値が低いのは、食べ物だけでなく、腸になんらかしら問題があって吸収できてない可能性もあるからとのこと。なので、胃カメラといっても胃からさらに小腸までカメラを入れ、そこで小腸の組織を取って培養検査をするのです。

胃カメラを飲むのは大変と聞いていただけに、小腸までと聞いてぎょっ。内科の担当医が「吐きやすい体質?」と聞いてきたので、「子供の頃からよく吐いているので、吐くのは得意です。」と答えたら、「じゃあ麻酔で眠らせてあげる。それなら何も感じないから」と。

昨日の夜12時からは飲まず食わず。検査は14時からだったので、かなりの空腹感。お腹がすくのはまあ我慢できるとして、やはりのどが渇いても水が飲めないのは辛いですね。というか条件反射で水の入ったグラスをつかんでいて、気がつくの無意識に水を飲もうとしている。。。これってやっぱり本能なんでしょうね。

で、病院にいくと早速注射針をさされ(これまた抗がん剤のせいでまたまた3回もさされてやっと入ったのですが)、左を下にしてベッドに横寝状態になり、口には歯を傷つけないようにマウスピースを入れられ、そこからカメラを入れるんだなぁ~とか思っている間にあっという間に麻酔が効き、目が覚めたらすで病室でした。口の中に変な後味がある以外、何も感じることもなく「な~んだ、何も感じないや。」と思ってたらまたそのまま寝てました。で、結局2時間程度ゆっくり昼寝をさせてもらい、そのまま釈放。別にすぐに何を食べても飲んでも良い、といわれていたので、家に帰って早速チョコをかじり、先日焼いたアップルケーキをぺろりっと平らげました。

というわけで、思ったより全然楽な検査でした。さて、結果はなんと出るか。。。

2009年12月16日水曜日

ウィッグ

抗がん剤で髪がかなり抜け落ちたのは既に半年以上前。毎日すごい量抜けて、起きたら枕にごっそり髪の毛がついているし、シャワーの排水溝は真っ黒で水が流れなくなる程。手櫛を入れるとそうめんの束くらいが毎回抜けるんです。いい加減、掃除が嫌になって、きれいさっぱりそり落としたのが4月の頭。それからはずっと医療用カツラで過ごしてました。ハゲなのは尼さんみたいであまり気にならなかったんですが、そのまま外に出ると「癌です」という看板をしょって歩いている気分になるのが嫌だったので。

抗がん剤が7月に終わり、7月末からどんどんまた髪の毛が生え始めて、既に数センチ。そろそろカツラも飽きてきたし、スーパーショートヘアーです、と言えるくらいは伸びたので、カツラをかぶるのをやめたのが10月末。でも、ここまで短いと何も出来ないからやっぱり2ヶ月もたつとこのショートにもはっきり言って飽きが来ていました。「またカツラでも買おうかな~」となんとなく思っていたところ、美容院のお姉さんと話をしていたら「Onlineで色々買えるよ」と教えてもらったのです。

初めは教えてもらったサイトだけを見ていたのですが、どうもあまりいいものがない。で、思い出したのが、初めのカツラを買ったお店で聞いた「殆どのカツラはアジア産」と言う話。それなら、と思って日本語で検索したら、あるある!とにかく色んなスタイルがいっぱいあるし、各スタイルに色が最低5色はある。黒、ナチュラル茶、茶、ライト茶、ブロンド、黒とライト茶のハイライト、黒と茶のミックス、なんて具合。さらに耐熱のものもあって、そうなると自分でスタイリングも可能だったりする。いや~、やっぱり日本は進んでる!さらに、かなりお手ごろ価格というのが嬉しい。

実は、初め買ったカツラは医療用カツラ。選んだのはナイロン製のものだったで、ミドルクラス。それでも値段は約600ユーロ(8万円弱)もして、これが本当の人毛だと1000ユーロ(13万円)とかになる世界なんですね。さらにカスタマイズで作るとこれが100万円とかになったりするんです。これがなかなかカツラに手が出せない大きな理由になるんですが、私が見つけたオンラインショップでは3千円くらいからあるんです。いや~、嬉しいですね。ということで、早速ショートとロングの2種類もオーダーしてしまいました。さて、似合うかな?

栄養士 12月2日

血液中のビタミン値が低いので、内科から栄養士に送られました。出てきた栄養士は若いお姉ちゃん。大丈夫かいな?と半信半疑でとりあえず問診に回答。

要は口頭で普段食べているものとその量を簡単に言うだけ。で、彼女の出した答えは「脂肪が足りないから、バターとかマーガリンを必ずパンに塗りなさい」って。普通、コレストロールが高くなるからこの手の脂肪はとるなというのが常識。そこで反論したところ、「でもあなたは脂分を取ってない」と。そこで普段食べているものをさらに詳しく説明して反論。つまりところ、彼女の頭の中では料理名を聞いただけでその中に何が入っているか知らないんですね。全くもう!

さらに「果物を取ってない」って。これは「果物ジュースを飲んでる」と言ってるのにもかかわらず。そこで、ジュースは出来合いのパックのではなくて自分でちゃんと果物を何個か使って作ってるとまで言わないと分からない。さらに「ビタミンAをとってない」とも。なので、食べてる野菜を一々説明してそれで十分かどうか聞かないと駄目。「一体何なの、この栄養士は!」というのが正直な感想。結局自分の知識内で十分対応できてるし、あまり役に立たないアポでした。やれやれ

歯科

白血球がもとに戻ったので、半年ごとの歯のチェックアップに行ってきました。これまで虫歯0を誇っていたのですが、なんと今回初めて永久歯に虫歯があったのです!結構ショック。。。

実は、抗がん剤をはじめてからちょっとおかしいかも!と思ったことがあって気になっていたのですが、やっぱり。歯医者に言わせると抗がん剤の影響とは考えられないとのことですが、これまで全然虫歯とは縁がなかっただけに、抗がん剤の副作用で白血球が以上に減り、バクテリアに対する抗体が弱っていたとしか思えないんですね。さらに、もっとショックなニュースはその虫歯になった歯が死んでいると。インプラントをする必要まではなかったのですが、当然死んだ歯を使えるように治療をする必要があると。

歯医者では歯が死んだ理由は矯正をしていたからと言われたのですが、矯正もする歯医者の友達に言わせると矯正で歯が死ぬなんてあまり考えられないし、理由は他にもあるはず、と。歯が死ぬほどの圧力をかけたところで、動かない歯は動かないので。いずれにしろ、リテーナー(矯正した後の歯が動かないように裏から固定する金属)のとめ具が外れていたので、矯正歯科にも行ってクレームをしたのですが、やはり私の歯医者の友達と同様、矯正だけで歯が死ぬとは考えにくいと。この矯正歯科医のクレーム処理の態度が余り良くなかったので、頭にはきたもののクレームをしたところで死んだ歯が戻ってくるわけではないし、歯1本にエネルギーを費やすのもばかばかしいので、結局泣き寝入りです。

後日、歯医者から請求書が届きました。保険でカバーできるのを除いた自己負担額は150ユーロ(約2万円)。痛い出費です。

2009年11月22日日曜日

お見舞い

リハビリで一緒のメンバーが調子を崩して入院して既に数週間。自分の定期健診でいく病棟に入院していたので、自分の検診が終わってからお見舞いに行ってきました。

彼の調子は芳しくなく、状態も全然良くならないし、いつになったら良くなるのか見当もつかない程でした。当然、本人もその状態がずっと続いていることにイライラしていて、「もうこんなんなら、いつ死んでも別にいいんだよ。」と。

自分も手術後になかなか回復しないことにイライラしていたので、その気持ちはすごく良く分かるんです。たったこの間までピンピンしてなんでも自分で出来たのに、いつの間にか自分の体なのに自分の思い通りにならない状態になってる。誰か「癌がひどいのか、癌治療がひどいのか」と言っている人がいたけれど、本当にそう。「治療のせいでこんな思いするのならもう治療なんてやめたい」と思ってしまうんですね。ま、私も未だにそう思うこともありますが。

私の入院中、唯一の楽しみは人が来てくれる事でした。手術後で殆ど動けないし、体力がなかったからとにかく疲れるのだけど、それでも人が来てくれてしゃべれることが楽しくて、その時間に合わせて身支度をして、おしゃべりをする体力を充電する為にお昼寝をしたものでした。あの時に「来てもらえるだけでありがたい」と思ったからこそ、余り知らないこのリハビリ仲間のお見舞いも「行くだけで価値がある」と。

予想通り彼にはすごく喜ばれて「行ってよかったな」と。一方で、何かしてあげたいのに何も出来ない自分がもどかしいんですね。それで初めてあの時自分のお見舞いに来てくれた人がみんな「ね、何かして欲しい?何か欲しい?」と聞いていた理由が初めて分かりました。というわけで、来週の通院でまた彼のところに顔を出す予定です。次は気分晴らしの花でも持って行きますかね。

腫瘍内科 11月18日

毎月行っている内科医とのアポ。なかなか白血球が元に戻らないから開放されなかったのだけど、とうとう今回の血液検査で白血球が正常値に戻っていることが確認できました。ほっ。週2回のビタミンB12注射が効いたのか、或いは体がやっと回復したのか。ま、理由はともあれインフルエンザや風邪が蔓延している今日この頃、これで一安心です。

とはいえまだホルモン療法の副作用はひどいので、副作用を軽減すべく更なる薬を処方するか、別の薬に変えるかを検討することになりました。その他、ビタミン欠乏が食事によるものなのか、或いは腸の異常なのかを検査する為、栄養士に送られることになり、同時に小腸まで届くカメラで組織検査することになりました。ちなみに胃カメラを飲むのも大変だからカメラを飲むと聞いてぎょっとしたのですが、「吐きやすい体質?」と内科医に聞かれ、速攻で「はい。子供の頃からよく吐いてたので、吐くのはとても上手です。」と答えたら、「じゃあ、麻酔で寝かせてあげる。それだったら何も感じないから。ゲェゲェなると大変でしょ。」って。癌患者に対する甘やかせ作戦のオランダ、好きだな~~~

というわけで、まだまだ完全ではないけれど、これで一歩前進って所でしょうか。

2009年11月8日日曜日

レントゲン

外科の定期健診の準備として、残っている左胸のレントゲンをとってもらいました。前回癌と診断された時以来、1年ぶりのレントゲンでした。

幸いにも何も写っていなかったので、その場で放射線医から「異常なし」と言ってもらえました。ほっっっ。

DNAテスト

木曜日に遺伝子学科(?)へ出向いてきました。30代で癌になるには早すぎるから遺伝かどうか調べたほうが良いと外科医からも内科医からも言われて、この科に送り込まれたのです。

アポの前に色んな書類を提出しなくてはいけなくて、その中のひとつが家族形成とその病歴。つまり家族の中に癌がいれば、どんな癌で、いくつの時になったかなどを詳しく書いて出すのです。

医者(というより、リサーチャー?)との話は生物の授業みたいで、まずは受精卵の分裂とその際遺伝子がコピーされる過程、遺伝子の種類や仕組みなどを分かりやすく図を見せて説明してくれるのです。早い話が遺伝子の中に癌を予防する情報があって、そこにバグが含まれているかどうかを調べると言うこと。余りにも面白い個人授業だったのでついでに色々聞いちゃいましたが、私が調べてもらうのは乳癌予防をしてくれる遺伝子情報(BRCA1とBRCA2)の部分だけ。

と言うと簡単に聞こえますが、実際には血液採取して、その中から白血球を取り出し、そこから遺伝子を取り出して、ひとつずつ調べていくんだそうです。全ては手作業なので、結果が出るにはとても時間がかかります。これもちゃんと保険でカバーしてくれるのでオランダでは自己負担はありませんが、聞くだけでも気の遠くなりそうな作業の割に、1回のDNAチェックの値段は700ユーロなんだそうです。

実際に遺伝であるといわれるのは全体の10%位だそうです。また例え遺伝であったとしても次世代にも遺伝してしまう可能性は50%。これは子供は男親と女親の両方から一つずつ遺伝子をもらうので。但し、遺伝子にバグが含まれていると癌の発症率は60~80%なんだそうです。なぜなら遺伝子情報は「癌になる遺伝子」ではなく「癌を予防する遺伝子」なので、ここに情報エラーがあると癌を予防する機能が下がり、癌細胞が代謝されにくくなっていく、つまり癌になるということなのです。

それ他遺伝の場合、自分自身の癌発症率がさらに高まることを意味するので、定期健診がさらに延び、同じ遺伝子で関係する卵巣癌の検査も含まれることになります。さらには、癌にならない予防治療として乳房&卵巣の切除などが検討されることもあるとか。ま、これらの話は実際に結果が出てからの相談になりますが。。。

というのが私のオランダ語力と知能で理解した範囲。さて、どういう結果になることやら。

2009年10月31日土曜日

リハビリ 10月30日

9月末から始まったリハビリ、毎週火曜と金曜の朝に通ってます。火曜日はフィットネスとプール。金曜日はフィットネス、グループトーク、グループ競技。

フィットネスは1時間ほど、筋肉トレーニング、ストレッチ、クロストレーニング、ランニング、自転車こぎなど、どこのフィットネスセンターにもあるようなものをそれぞれ自分にあったプログラムでこなすもの。私の場合、ムキムキにならない程度の重さにした筋トレと、コンディション作りの為にどれか必ず息の上がる(歩く、自転車こぎ、クロストレーニング)ものをしてます。

プールは深さを調節できるので、グループで一番背の低い私に合わせて1.3メートルに設定してもらってます。みんなで水の中でボール競技したり、ボールの取り合いとか、ボール持って泳いだりとか。意外と水の中だと差が出来ないので、バレーとかバスケとかも楽しいです。で、この陸の上でのバージョンがグループ競技。ちなみに今日はバレーでした。でも、普通にやるのではなく、二人でタオルを持って、タオルでボールをキャッチしたり、投げたりするんですけどね。

グループトークは毎週テーマが決まっていて、これまでにやったのは、自己紹介を含めた治療の話、コンディション作りのための保健体育の授業みたいなの、会社での病欠扱いの法律及び失業保険手当てなどの仕組み、疲れについてなど。

例えば、今日のテーマは「疲れ」。私もとにかく疲れるのだけど、残念ながら癌の治療の中でこの「疲れ」については延々と続く副作用のひとつの割にあまり注目されていない。例えば「痛みと疲れはどっちが患者にとって困ることか?」というアンケートを医者にとったところ、95%が「痛み」と答えたとか。グループ全員で「マジで?」という反応。それ位、痛みより疲れのほうがきついんですよねぇ、当人にしてみれば。勿論、末期癌の痛みとかは別なんでしょうけど。あと麻酔科とかちゃんとした科が存在するように痛みに対しては色々進んでいるんです。
例えば、手術直後は私もモルヒネ打ってもらいましたが、結局あまりにも血圧が低くて、ついでに貧血で倒れたりしたので、あっという間に量を減らされて、2日目にはもう完全カット。で、代わりにもらったのが痛み止めの錠剤。でも余りにもまずい病人食だったので、ロクにご飯も食べずこの錠剤飲んでたら、今度は胃が痛くてたまらない。それで3日目には結局その錠剤もやめて、痛み止めなしだったんです、10cm以上の傷口で多分500g位の肉とって、寝返りも難しいくらい痛かったんですけど。でも、文句言わない位我慢できるわけですよ。
今は毎日が疲れとの戦い。何かのアポがあると次の日はダウンみたいな生活をしていて、こっちは我慢できない。やりたいことができない、ぐっすり寝れないし疲れているからイライラする、集中力がなくなる、などなどどう考えてもこの「疲れ」のほうが手術後の「痛み」より全然大変なわけです。普通の健康な人なら忙しくて疲れていても、数日ぐっすり寝れば大抵の疲れは取れますが、がん患者の疲れは延々と倦怠感が続くんです。で、夜も副作用のせいで数時間おきに目は覚めるし、人の話とかも疲れるので延々と聞くことが出来なくなる。これが外国語だったらもっと大変。なので、手術後からロクにこちらのテレビを見てないんです、私。とにかくオランダ語も英語も全然頭に入ってこないくらいに集中が出来ないんですね。最近そこそこ楽しんでいるのは映画くらいかなぁ。。。あと、毎週2回のリハビリも行くと元気になるけど、やっぱり体力勝負なので帰ったら絶対お昼寝タイムが必要。つまり余裕を持って予定を立てないといけないし、予定を立ててもその通りできないことも半分くらいあったり。となると、アポも取捨選択していかないといけないんですね。当然、医者とかリハビリとかが優先されるので、友達と会うのはその合間、合間。となると、なかなか人に会うのも大変になるんですねぇ。たまには誰かに会って息抜きもしたいんですけどね。

でもこのリハビリを通して、同じ悩みをもった癌患者と色々話ができるのはとてもありがたい。人によって程度の差はあっても、結局つまるところはみんな同じことでイライラしているので。最近はグループで色んなゲームをすることで連帯感も生まれてきているせいか、なかなか楽しくリハビリに通ってます。

2009年10月19日月曜日

腫瘍内科 10月14日

10月22日に予定された手術の前に念の為、ということで検査に行ってきました。予想とは大きく外れて、血液の値が全然回復してませんでした。一番の問題は低い白血球の値。最低ラインをぎりぎりクリアしたものの、手術をしてもまだ化膿したり、炎症をおこしたりする可能性が高いというのが担当内科医の意見。白血球は、抗がん剤中も問題になるくらい低かったのですが、増やす為の薬もこれまで5回処方された1本1,500ユーロ(約20万円)の注射以外なければ、食べ物も、出来ることもなくて、ひたすら回復するまで待つしかないんですね、これが。

それ以外にも色々なビタミンが欠乏しているらしく、それに対する薬や注射を処方してもらい、さらに血液検査をすることに。血液検査は手術してないほうの腕しか注射針をさせない上、抗がん剤で固くなっているわ、血管は細いわ、血は出ないわでこれまた大変だったのですが、何とかクリア。で、結果はイマイチ思わしくない。。。結局抗がん剤の影響なので、食べ物などで変わるほど簡単なものではないし、そう簡単には治らないというのが良く分かりました。本人はいたって元気に動き回っていても、体の中はまだまだ病人だってことでしょうか。

形成外科医との相談結果、手術は血液の値が元に戻るまでは延期。しばらくは様子見となります。自分的には12月にリハビリを終えて、日本旅行も終えて、年が明けてから位の気分でいればいいかな?と。オランダ政府は最高2年までは病人用の生活保護を出してくれるので、あせらずゆっくり、気長にやっていこうと思います。

2009年10月16日金曜日

ぎっくり腰

になってしまいました。。。特に重いものを持ったわけでもなく、ストレスのある生活をしているわけでもなく、ついでにリハビリのおかげで軽い運動までちゃんとしているのに、一体なぜ?って感じですが。あえて言えば、最近とにかく寒い。それで筋肉が固まっていたとしか思えない。

ぎっくり腰になった瞬間は多分車から降りた時。この日、遅くまで知り合いのおうちでドンちゃん騒ぎをし(でも勿論アルコールは飲んでませんよ)、車を飛ばして家まで帰るのに、車は「凍結マーク」を出し、なんと2度って言う表示。「真冬の温度だよなぁ~」とか思いながら、暖房入れて走っていたら、途中の国道(?)沿いはところどころの霧。暖房入れていても結構寒かったので、体が硬くなっていたのかも。

ま、症状としては、前回になった時より全然軽いので、まだ動ける。でも、かがんだりするのは結構キツイ。用心でしばらくおとなしくしておく予定です。というわけで、今日のリハビリはフィットネスだけはパスすることにしました。痛みがひいたらまた真剣に運動しないと。。。

ちなみに前回ぎっくり腰になった時って、実は今の彼といい感じになり始めた時。そういえば、あの頃のほうが色々面倒見てもらったような気がするのは気のせいだろうか。。。

2009年10月14日水曜日

銀行強盗

今日、三菱東京UFJ時代の元同僚がお見舞いに来てくれました。で、教えてもらったのが、私の元職場、オランダ三菱東京UFJ銀行に先々週強盗が入ったとか。3人組が銃を持って、非常口から入ってきて、そのフロアにいた全員が床に伏せたとかなんとか。もう、びっくり!働いていた当時は、「強盗対策の非常ベルなんて必要ないでしょう。どうせ、ここには殆ど現金なんてないし!」なんて笑っていたのですが、実際に必要になるとは思いもしませんでした。

正直ベース、あの職場辞めてて本当に良かったなぁと思う一方、その場にいた元同僚のことを思うととても気の毒です。早速元同僚に連絡してみようとは思いますが、みんな大丈夫なのかな。

ちなみにこの事件のニュースのリンクです。
http://www.at5.nl/artikelen/24634/bank-bij-zuid-wtc-overvallen

2009年10月8日木曜日

木山家の台風

両親の日本帰国が6日。KLMの直行便だったので、出発は午後の15時40分。13時半頃に空港に連れて行って、いざ荷物を預けようとしたところで母親が「パスポートがない!」と。。。

荷物を開け2度ひっくり返しても出てこない、服のポケットも駄目、「家に忘れてきたのかも。。。」半べそのパニックの母親に、父親は怒りのあまり罵詈雑言。ここはリペア・マネジメントをするしかないので、まずは父親だけの搭乗手続きをし、パスポートコントロールに送り出し、後はKLMと交渉。結局どんなに頑張っても荷物を預けるのは15時まで。その時点で14時15分だったので、パスポートを取りに家に戻っても、絶対間に合わない。とりあえずその日のフライトはあきらめることに。

ただ、飛行機のチケットをブックしたときにどこかで「変更可能」と言う文字を見たような気がしたので、帰宅後パスポートを見つけてからKLMに連絡、ぎりぎり出発前で、変更可能!運よく1万5千円で10月26日までなら空席さえあればいつでも良いとのこと。「どうせなら、手術終わるまでいる?」なんて言っていたのですが、娘より大事な旦那の世話があるので「なるべく早く帰りたい」と。結局翌日の同じ便を抑えました。

すぐインターネットでチェックインし、7日にパスポート持参で余裕を持って空港へ参上。そうしたら「21時40分まで遅延(つまり6時間遅延)」との表示。うそでしょ~!!!って感じ。結局、家に帰って出直す間に飛行機が早めに出ちゃった、なんてことがあるとマズいし、私は医者のアポがあったので結局母親一人、空港へ残していくことになりました。勿論、私に電話が出来るようにお金と携帯番号を持たせて。

家についてから日本に一足先についた父親に電話。「あぁ、台風の上陸があって、ちょうど飛行機がつく翌朝に近畿地方を台風通過の予定だから。でも6時間待てば、名古屋か、東京あたりに抜けてるから飛ぶと思うけど。」結局、1時間おきにインターネットで確認して、22時になってやっと21時40分の飛行機が出たことが確認できて、ようやくほっと一息つきました。やれやれ。このドタバタで、自分が台風直撃を受けたような気分。。。 肝心の台風の目の母親はケロッとしたもので、関空についても父親へ電話一本入れるでもなく、家に着くまでなしのつぶて。待つほうは「ちゃんと飛行機に乗れてたのかしら?」とまで想像を膨らましてしまい、気をもむ一方。一体どっちが親なんだ!と言いたい。。。元々自己中心な人だけど、ここまで来ると本当にはた迷惑な人!と真剣に思いました、今回。

ちなみに、6時間の遅延でKLMからもらえたものは、1)次回航空券を買う時に使える50ユーロ割引券、2)空港内での飲食に使える10ユーロのクーポン、3)最高5分まで世界中どこへでもかける事の出来る電話クーポン、の3つ。昔、私がKLMで同じような経験をした時は、関空でもらえたのは飲食のクーポンだけ。しかも、無理やりのせてもらえたAir Franceが遅れ、パリからアムスへの便へ乗り遅れ、その時に家に電話が出来なくて、パリのゲートにいた地上係員のお姉さんの個人的好意で、彼女のクレジットカードでやっと家に電話した私。随分、KLMのサービスも向上したよな、とちょっと感慨深かったりして。。。

2009年10月5日月曜日

オランダの医療について

最近、日本の癌患者が書いた本を読んで、びっくりしたことが色々あるので、「私、オランダで治療してもらって本当に良かったなぁ」と思っている理由を書いてみたいと思います。

オランダの医療で一番すごいことはやはり「無料」だと言うこと!って、本当に無料な訳はないので、月々の保険料は国民全員が払わないといけないんですね。これは国民健康保険とでもいいますか。みんな自分が好きな保険会社を選んで、基礎の部分の支払い&それ以外のオプションを色々つけてます。でも、基礎の部分で殆ど重要な部分はカバーできるわけです。つまり、癌の治療には1セントたりとも払う必要がないんですね。抗がん剤を打たれようと、その副作用を和らげるとんでもない高い注射をもらおうと、手術を何回しようと、入院日数が延びようと、全部タダ。なので、お金の心配することなく必要な治療が受けれるのです。お金のかかる癌治療の場合、自己負担のある日本と比べるとこの違いは大きい!例えば、私の処方された抗がん剤中の副作用緩和の注射、1本20万円近いものでした。これを結局5本使いました。今は毎月1本2万5千円位の注射を打ってます。これは今後5年続きます。抗がん剤の値段は知りませんが、日本では1回100万円近いとも聞いています。。。手術は最終的に計3回。一回につき、いくら位かかっているんでしょう???って考えていくと、月々の保険料以外の自己負担が全くないこの医療システムは本当にありがたい。確かにこの国の税金高い(所得税の最高税率52%!)けど、癌みたいな大変な病気した人がお金の心配せずに治療が受けれるのなら、私も元気になったら文句言わずに税金払おう!と思いました。

お金の話の延長で行くと、保険の適用範囲がとても広い。例えば、胸の再建は乳癌治療の一環と認識されるので、こちらも保険で全額カバー。日本は自己負担?抗がん剤&ホルモン療法の副作用で必要となった不妊治療(卵子を取り出して受精卵を凍らせてくれ、さらに治療が終わったらそれを着床できるよう戻してくれる)も保険適用範囲。医療用カツラも最低額まではカバー。精神科医も、リハビリも、大部分が保険適用範囲。入らない部分は保険のオプション(月々数千円)でカバー。結局殆どお金が要らないんですね。何もかも治療の一環としてもらえるのは、日本では考えられないと思います。

次に進んでるなぁと思うのは総合医療。つまり、私という人間を総合的に治す為に各分野の専門家が色々連携して治療に当たってくれるんです。例えば、「癌です」と言われた時に外科医が言ってくれたのは、「胸を全部取らないといけないけど、胸の再建という選択肢もあるよ。必要なら形成外科を紹介するから」と。抗がん剤の説明を受けた時、内科医は「治療の副作用で子供が出来なくなる可能性があるけど、治療が終わってから子供を作る為に卵をとっておくという選択肢もあるよ。必要なら産婦人科を紹介するから」と。取った癌の説明をしてくれた外科医は「君の場合、とても若いから、遺伝かどうか調べる方法もあるよ。自分の家族の為にそれを調べたければ、遺伝子科(?)を紹介するよ」と。それ以外に何かリクエストがあれば、看護婦さん達も含めてみんなで助けてくれるんですね。癌専門の精神科医の紹介、医療用カツラの紹介、癌患者の為のリハビリの紹介。
さらに「これはすごい!日本に絶対ない」と思えるものが癌患者のためのビューティーセミナー。ハゲになったり、眉毛&まつげがなくなったり、顔色が悪くなる癌治療。それをいかにうまくカバーするかがこのセミナー。ビューティー・スペシャリストが病院に来て、カツラの選び方、かぶり方から、眉毛のかき方、顔色を良くする方法を教えてくれるんです。実際に企業の寄付でもらった化粧品を使いながら、みんなでお化粧。そうすると、さっきまですごい病人顔だった患者さんが一気に健康な外見を取り戻すんですね、これが。で、ビューティー・スペシャリストが一言、「すごく元気な顔になるでしょう?でも、診察の時はちゃんと化粧のせいって担当医に言ってくださいね。でないと、本当に元気だと思われますよ~」って。

最後に、医者の患者に対する態度。(上から下へ物言うって感じの)先生ぶってないんですね、こちらの医者。(ま、これはオランダの文化がフェミニン文化だからという別の話になるのですが)どちらかと言うと、患者はお客様の扱いに近いというか。。。だからセカンド・オピニオンの話しても「うん、うん。納得できたほうがいいから行っておいで。どこの病院に行きたいか言ってくれたらそこを紹介するから。手術は早いほうがいいし」ってすぐさま資料を全部そろえて出してくれた外科医。抗がん剤治療の最中に「治療が長くなって息切れがしてきた。彼のお誕生日に旅行をプレゼントしたんだけど、行ってもいい?」と言い出した私に「あぁ、いい気分転換になるから行ってらっしゃい。」と即答し、旅行にいけるよう、抗がん剤の日程まで考えてくれて、何かあったときの為の準備まで考えて快く送り出してくれた内科医。日本ではセカンド・オピニオンなんて嫌々だす、或いは書類を渡さない、とかいうこともあるとか。勿論、医者によるのかもしれませんが、私はここで良いお医者さんに恵まれて、本当にラッキーだったなぁと本当に感謝してます。というわけで、ますます私のオランダ化に拍車がかかる今日この頃。

2009年10月4日日曜日

オランダで最年長の学生

私の通ってるイタリア語のコースに来ている女性、なんと99歳!英語、ドイツ語、スペイン語、フランス語がペラペラで、授業にミニのワンピースを着てくるようなおしゃれなオランダ人です。しかもユーモアにあふれている!例えば、イタリア人の先生が「元気?」と聞くと、「まだ生き残ってるわ」と答えたり、「99歳で新しいことを学ぶなんてすごいわ!」と私が言うと、ニヤッと笑って「実は新しいこと覚えるよりこの学校まで毎週通うほうが大変なのよ」と。

今日は、彼女の子供の頃(大戦前の1910年生まれ)のアムステルダムの話を聞きました。今は路面電車のトラムはその当時馬でひいていたとか。話を聞きながら「うちのおばあちゃん生きてたら、ちょうど同い年くらいだったかも」と祖母から昔話を聞いてた子供の頃に一瞬タイムトリップしちゃいました。

ちなみに数ヶ月前に「オランダ最年長の学生」ということで新聞のニュースにも載ったんだそうです、彼女。彼女の勉強姿をみたり、お話したりすることで、こちらがすごく良い刺激をもらえます。勿論、そうやって前向きだから99歳まで生きていられるんでしょうけど、自分もまわりにこういうポジティブなエネルギーを与える存在になりたいし、こうやって前向きに年をとりたいな~と思う今日この頃です。

リハビリ

がん患者の為のリハビリプログラムに行ったほうが良いのでは?と主治医に言われ、半信半疑でリハビリセンターに申し込みに行ったのが数週間前。「回復&バランス」という名前の、13人のグループで週2回、12週間、一緒に運動したり、話をしたりするプログラム。運動するのはともかく、グループで話をして為になるのかな?と本気で疑っていた、私。

初日は、自己紹介とプログラムのオリエンテーション。はっきり言って時間の無駄だったと思っていたのですが、実際にプログラムが始まった金曜日、「申し込んでよかったなぁ」と。

運動は、コンディション作りの最初なので、余り息を切らさないようにゆったりと自転車こぎをしたり、歩いたり。「息を切らさない程度」ということで、2人一組でぺちゃくちゃお話しながら運動するとあっという間に1時間たつんですね、これが。お互いに「これくらい大丈夫だろうってつい無理しちゃうんだよね~。すると次の日に寝込んだりしてね」なんて話しながら。あぁ、みんな同じように無理が出来なくてイライラしてるんだって。

グループでお話する時間は、今回は精神科医を入れて詳しい自己紹介。今回は勿論自分の病気についてお話することになりました。私たちのグループは今13人。うち10人が女性で、そのうち8人が乳癌。みんな同じような治療なんですが、それぞれ程度の差があって、乳癌患者のうち私以外はみんな一部を切り取っただけの手術、つまり胸を残したままなんですね。しかも、一番若い私は治療が一番重い(ような気がしただけかも)。中には「乳癌を発見した時に妊娠中で、出産後すぐに手術。結果が良くなくて3回も手術をした」とか言う人もいたけど、私に言わせれば、「子供出来たんでしょ、胸ものこってるんでしょ。じゃあ私よりマシじゃない」と。

本人にとってはまだ乗り越えてない心の壁があるからドラマのヒロインちっくなんでしょうが、私なんてとっくの昔に乗り越えちゃった壁だから、なんというか自分のたくましさを改めて実感したと言うか。。。考え方次第でいくらでもポジティブになれる自分の楽観主義にちょっと感謝。みんな抗がん剤なんてかれこれ半年前に終えてるのに、旅行にも行ってないって。抗がん剤の合間に旅行、終わってからも料理教室や、語学学校に通ってる私ってやっぱりスーパーウーマン?って思いました。そうやって他の人と比べても断然私のほうがうまく病気と付き合ってるって分かっただけでも行った価値があるなぁと。やっぱり外国暮らしを長くやってる分、たくましいのかしらん?

チョコレートケーキ

最近リクエストが多いので、イタリアで習ったシェフ・ビアッジョ直伝のチョコレートケーキの作り方をここへ載せます。

材料

ダークチョコ 250g
バター 200g
砂糖 100g
小麦粉 60g
卵 5個

作り方
1.チョコレートとバターを湯煎で溶かす
2.砂糖と小麦粉をボールに入れ混ぜてから、卵を加え軽く泡だて器で混ぜ合わせる
3.溶けたチョコレートとバターを2に加えて、軽く混ぜ合わせる
4.1人分のケーキ型にバターを塗り、ココアを薄くはたく(バター&ココアは分量外)
5.3のチョコレート生地を4のケーキ型の80%まで流し込む
6.200度のオーブンで約10~15分焼く(オーブンや型によって時間を調節する)



注)出来あがったケーキを切って、中から溶けたチョコレートがトロリンと出てくると、ちょうど良い焼け具合

2009年9月28日月曜日

デ・ハール城

意外と近くにあるのに、行ったことのないデ・ハール城に行ってきました。中世の壊れかけた城を19世紀にネオゴシック調で建て直したもの。

お城の詳しい情報はこちら

お城&お庭のサイズが、大きすぎず、小さすぎず、年寄り(両親)&半病人(私)がちょっと見て回るのにちょうど良くて、楽しい日曜日の午後となりました。

2009年9月27日日曜日

最後の手術について

「え、また手術なの?」とよく聞かれるので、一応報告。あ、結構エグい話なので、詳しく知りたくない方は、この稿全て飛ばしてください。

乳癌治療は色々あるのだけど、こちらで乳腺全部をとる手術(胸のamputation)を外科でする場合、形成外科で胸の再建(つまり偽物の胸を作り直すこと)をするかどうかの選択ができます。これは日本では結構まだめずらしくて、普通は外科で切ってもらった後にどうしても胸を作りたかったら自分で形成外科をみつけて自分で金払ってやんなさい、というのが主流のようです。オランダの場合、よく出来ていて、胸の再建も乳癌治療の一環として認識される為、外科でもそういう選択の話をしてくれるし、私のかかっている大学病院では外科と形成外科が隣同士でコミュニケーションもよく、勿論保険で全部カバーされるんです。すごいでしょう?

初めての手術の時は、外科の先生と形成外科の先生の2人が執刀医。つまり、外科の先生が切り取って、形成外科の先生が詰め物をして、閉じて(綴じて?)くれると言うこと。私の場合、乳腺を切り取った(つまり中だけなので皮膚の部分は残っている)後、そのままシリコンを詰めるには皮膚が張りすぎていて伸びきらない、と判断されたので、シリコンの代わりにエクスパンダーという風船みたいなものを入れてくれたのでした。

このエクスパンダーには磁石のついた穴があって、普段はその磁石がくっついているから穴が閉じているんですが、そこに注射針を指して少しずつ食塩水を入れることが出来るようになっているんです。で、注射針を抜くと磁石がくっついて、穴がまた閉じるという仕組み。よく出来ているでしょう?

で、初めての手術から目が覚めたら、エクスパンダーは殆ど空の状態なので、胸はぺったんこ。でもモルヒネで半分ラリッていたので、「あ、小学生にもどったみた~い」なんて思ってたんですね。ははは。で、傷口が閉じた3週間後から少しずつ食塩水を入れてもらって、左右の胸が同じ大きさになったのが、数ヵ月後。その後、抗がん剤とかの別の治療があったのでそのまま胸の再建が止まっていたんです。

今回、やっと抗がん剤からも回復しつつあり(といっても白血球はまだ足りないのですが、1ヵ月後の手術の頃には大丈夫だろうと言う判断で。)、最後の仕上げの手術をしましょうと言うことになったんです。なので、今度は仮で入れていたエクスパンダーを取り外し、半永久のシリコンを入れてくれるんだそうです。このシリコン選びもいろんな形、大きさがあって面白いんですけど、残念ながら豊胸手術ではないので、一番大きいものは選べませんでした。。。

で、この手術が10月22日の予定で、前回ほど大変な手術ではないものの、やはりシリコンを体に縫い付けたりする訳なので、当然前ほどでないにしろ痛みは伴うし、入院もしないといけないと。予定では、3日位の入院で済むそうですが、これも個人差があるのでその時次第ですね。

というわけですので、手術と言っても直接の癌関係ではないのでご心配なく!

両親の来蘭

今日、両親がオランダへ来ました。スキポールまで車で迎えに行ったら、ものすごい荷物。車のトランクに入りきらないからスーツケースは1つにしてね、とお願いしていたのですが。。。でも、家に帰って中を見て納得。出てくるもの、出てくるものがお土産で、お土産を出し切ったスーツケースはそれで空っぽ。やっぱり私が病気になってから、本当に心配していたんだな~とつくづく感じました。

長旅で疲れているだろうと、食べやすい日本食を作ることにしていたのですが、結局半分は母親が作ってくれました。半病人の娘の為にご飯くらい作ってやりたいと思っていたのでしょう。疲れていても、そういうことは頑張ってやってくれるんですね。ありがたいものです。

というわけで、私も結構疲れていて、両親も疲れているので、明日はこの周辺でゆっくりします。さて、今回は喧嘩せずにすむかな?

2009年9月26日土曜日

イタリア語

この夏、治療の合間を見計らって、イタリアでイタリア語と料理を習いました。結構お金もかかったし、イタリア語は個人レッスンで、過去完了まで習った訳です。このまま何もしないと忘れちゃうよな~と思い、オランダの文化センター(?)Volks Universiteitのイタリア語コースに通うことにしました。

イタリアで個人指導をしてくれた先生の生徒は殆どがアメリカ人。つまり、英語以外しゃべれない人達ばかり。その中で一応3ヶ国語しゃべる私は上達が早かったらしい。先生にいつも「なおこは私の一番優秀な生徒」と褒められてばっかり。

ところがオランダに戻ってきて、オランダでイタリア語コースへ編入(レベル2から入れてもらえました!)したら、やっぱりオランダ人は語学の習得度が速い!口から生まれたとよく言われる私は、しゃべることは相変わらず習得が人より早いものの、読み書きはオランダ人にはかなわない!ま、ラテン語、フランス語、スペイン語も出来る人達だから当たり前と言えば、当たり前だけど、やっぱりうらやましい。。。

今回の宿題は手紙を書くこと。いや~、Online辞書を使ってもかなり大変でした。さて、ものになるのかしらん。

2009年9月25日金曜日

腫瘍内科 9月25日

やっと、血液の値が元に戻り始めたようです。赤血球は既に正常値。白血球はまだ低いものの、少しずつ正常値に戻りつつある模様。とりあえずこの調子なら10月22日の最後の手術は問題ないと思われるとのこと。但し、手術前に念のため、もう一度血液検査ということになりました。

ようやく終わりが見えつつある治療。これでちゃんと新年が迎えられるといいなぁ~。

ザーンセ・スカンス 9月18日

今度はオランダ観光。オランダの古い村と風車がそのまま残っているザーンセ・スカンスへ行ってきました。片田舎で時間がゆっくり流れているせいか、何度行っても厭きません。帰りはお決まりコースでフォーレンダムによってハーリングを食べてきました。いや~、おいしかった。

ブルージュ 9月17日

フランスからオランダへ帰る途中でブルージュに寄りました。ずいぶん昔彼と2人で私の誕生日に行ったことのある水の街。どうやらユネスコの世界遺産になってるとか。そんなこともつゆ知らず、「ブルージュってあんまり好きじゃない」なんていっていた私。今回は、前行った時よりきれいな街と思えたけど、わざわざ自分から行きたいとは思わないところかな。ま、一緒に行った親戚は喜んでくれたので、それでよしということで。それにしても、写真見る限りオランダと変わらないじゃん!と思うのは私だけかしら???

リュ 9月16-17日

モンサンミシェルで1泊した後、ベルギーの国境に近い片田舎のRueと言うところへ行きました。周りはとにかく自然だけというところにあったB&Bに泊まりました。ここは何棟かの建物があり、私たち4人にはそのまま1棟あてがわれ、なんだかホテルとは違ってゆっくりできました。




翌朝は近くの海岸沿いの町(村?)へ行き、鳥のショーもみてきました。でも、やっぱりフランス。全部フランス語なんだなぁ~。なんだかよく分からなかったけど、鳥が飛んでいく姿は結構すごかったです。

モンサンミシェル 9月15-16日

パリから車で3時間半。モンサンミシェルへ。なが~い車の旅でしたが、その価値があるだけきれいなところでした。

ホテルは島の真正面で、部屋のベランダからこの風景。いや~、でも高かった!

2009年9月24日木曜日

車でパリへ 9月15日

9月13日に12歳年下の従妹が伯母と一緒にこちらへやってきました。前回日本へ旅行した時に「いつでも遊びにおいで」と言っておいたのが実現しました。旅行プランを考えるところから一緒にメールしながら決めていき、最終的には東京からパリに飛んで、アムスから東京へ帰る飛行機チケットをKLMのサイトでブック。一人約16万円也。私がこちらに来た時は20万円代が当たり前だった飛行機代。ずいぶんが安くなったもんだ!それでも、オランダでKLMをブックするのと、日本からKLMをブックするのでは同じ飛行機なのに300ユーロ程度の違いがあるのはちょっと納得できない。。。今時、インターネットを駆使すれば世界どこも共通、と考えると、飛行機代の違いもそのうち解消されるのかなぁと思ってみたり。

彼らは一足先にパリに到着。二日後の15日朝4時に私はプーと一緒に車でパリへ向かいました。ナビのTomtomによると4時間半。え、パリってオランダからだと6時間かかるんじゃなかったっけ?と思いながら出発。まだ暗い中、かなりの大雨となり、さらにベルギーはいたる所で工事中で車線は狭くなる一方。とうとうアントワープを過ぎたあたりの1時間半で運転はギブアップ。彼に結局代わってもらいました。いや~、運転手としてついて来てもらっていて本当に良かった!

工事のせいで途中一回渋滞に巻き込まれ、結局パリ郊外に着いたのが朝の9時過ぎ。ここから従妹達のいるルーブル横のホテルまで、車の進まないこと!結局ホテルに着いたのが10時。やっぱり6時間かかりました。

さて、パリ出発まで時間があったので、ホテル近くのキッチン用品を卸している店へ直行。ここはパリに行くたびに色々キッチン用品を買いに行くお店。卸業だけあって、その品揃えが素人にも嬉しい。例えば、ケーキ型は直径5センチ位の一人用が0.5センチ単位で大きくなり、果てはうちのオーブンには収まりきらない業務用のケーキ型まである始末。今回は、イタリアで習ったチョコレートケーキを焼く為の一人用ケーキ型とタルト型を12個ずつゲット。これも数あるサイズからどれにするか決めるのにずいぶん悩みました。。。その他、スパチュラとか、絞り袋、絞り口用の金具、など小物を色々買いこんでしまいました。本当はもっと色々欲しかったのだけど、うちのキッチンは狭くて制限があるので、泣く泣く我慢。早く大きいキッチンのあるお家が欲しいなぁ~

2009年9月9日水曜日

ブログをはじめました

去年末に病気になって以来、皆さんにご心配かけてます。こまめに連絡するほど筆まめでもないし、なんかいい方法がないかな~と思っていましたが、こうやってブログに記録していったらどうなるだろうと。

というわけで、これはあくまでトライアウト。続くかな?

2009年9月1日火曜日

自己紹介

ちょっとした自己紹介を。。。

名前:尚子
誕生日:1月24日
出身:広島県(生粋の日本人です)
在住:オランダユトレヒト市
趣味:ピアノ、料理、旅行

両親共に小学校の先生という家庭に生まれます。
私の母は私が生まれる前に2回の死産と2回の流産をしたため、私は5人目、戸籍上は三女です。2回の死産の原因は、産道が小さかった為、本当は自然分娩をしてはいけなかったそうです。ということで、私は帝王切開で無事誕生。何度も同じ所を切ることはできないから、帝王切開で産めるのは二人までという医者の元、3年後弟が誕生。こちらは胎盤剥離で母子共にかなり危ない状態だったそうですが、今はこの二人がうちの家族では元気な人達(笑)。

という背景もあって「蝶よ、花よ」と育てられました・・・というのは大嘘ですが、大事に育てられたのは確かです。ある意味過保護!? でも両親共に教育者だったので、躾に関してはかなり厳しかったです。周りにもそういう人が多かったので、「口の中に物を入れてしゃべるな」とか「刺し箸は駄目」とか「敷居は踏むな」とか「ドタバタ歩くな」とか、いわゆる昔風の躾ですね。というわけで、お稽古事も3歳(?)からのピアノを始め、小学校に上がる前からのお習字、小学校に入ってからの通信教育(「赤ペン先生」だったか?)とか、音楽にのめりこんでからはソルフェージュやフルートなど増えていく一方でした。ま、そういう教育方針のおかげで外に出てから恥をかくことは余りなかったと思います。

ただ学校生活はかなり窮屈でした。というのも学校の先生がみんな両親を知ってるわけですから。両親のどちらかと元同僚という先生方も結構な数いらっしゃったはずです。基本的に小心者で、超がつくほど恥ずかしがり屋だった(はい、過去形です・・・)私は、その環境で仕方なく「良い子の優等生」を演じてました。ということもあり小学校高学年で「受験する!」と宣言し、塾通いを始めました。

その当時かなり音楽にハマっていた私。習っていたピアノの先生が地元の進学校である中高一貫の女子校出身で、地元の音大生。「彼女のようなかっこいいピアノの先生になりたい」というのが私の夢だったんです。なので、なんと言うことはない向上心があったとか、そういうすごい理由とかがあったわけではなく、単に彼女の影響なんですね、中学受験を考えたのは。ま、父親のほうは理由なんかどうでも良くて娘が勉強する気になったのは喜んだようで、色々勉強をみてくれたり、宿題を手伝ってくれたりと、かなり協力的でした。

ま、色々やった割には成績はたいしたことはなかったので、受験は1勝1敗。結局、某大学の付属中学校へ行くことになりました。でも少人数で「学校教育学部(学校の先生になる専門の学部)」の付属だったので、最終的にはとてもよい教育を受けたと思ってます。なので高校の時より中学の方の記憶のほうがはっきりしてますね。今も仲の良い友達は全て中学時代の友達です。

地元の中学に進学せずに受験したので「よし、これで親の呪縛から離れられる!」と思っていたのですが、同じく小学校の先生をしていた伯父の大学時代の同級生と後輩が今度は私の中学の先生でした。。。ということで時々伯父からその先生方にチェックが入っていたようです。「うちの姪っ子はどうかいな?」と。

ちなみに一応進学校だったこともあって、中学で既に飛びぬけて頭のいい子というのが何人かいました。彼らは私にとっては別の星の人間でしたね。記憶力とか思考回路とか全然一般人の私にはついていけませんでしたから。そういう人達はみなさん医学部とかにいって今はお医者さんになってらっしゃいます。持つべきものは偉くなった友達です、はい。

で、凡人の私は既に音大へ行くことを目指していたので、あっさりお勉強のほうは捨て、レベルは低くとも家から2kmという近所にある地元高校へ行くことに決め、受験勉強らしいことは何一つせず、ピアノとフルートの練習だけやってました。ということで勉強もせず、さくっと高校に入学し、ろくに勉強せずにそこそこいい成績をとり、そのまま卒業しました。

高校時代はどちらかというと音大進学の為に学校が終わると家にすっ飛んで帰ってピアノをさらうか、ピアノやソルフェージュのレッスンに通ってるみたいな生活だったので、あまり学校の思い出というのはないですねぇ。それ以外には将来音楽をするのに絶対必要だよなと思っていた英語のレッスンくらいですか。

音楽のほうはあまり才能はなかったのですが、あれも続ける努力をすればある程度までにはなるんですね。まぁ、厳しくてよい先生に恵まれたこともあって、東京の志望校に現役でスパッと入りました。なぜ東京かというと、窮屈な親元から離れたかったから。

大学に入るまで知らなかったんですけど、うちの音大は「花嫁修業の学校」と巷では言われていました。確かに世間知らずのお嬢さんが多くって、ある意味すれてないかわいらしい人が多かったです。「あなたはピアノだけ弾いてればいいから」って言われて育ちました、みたいな人達です。なので一般庶民の私も「お嬢様」というカテゴリーに入れてしまったわけです。ま、興味もあってその頃ちょうどお華やお茶をやっていたこともその「お嬢」ぶりに発車をかけてしまった訳ですが、意図してやっていたのではないので念の為。

始めて親元から離れたこともあって、それまでの反動か大学4年間は気合入れて遊びまくりました。その頃には父親のDNAをしっかり発揮し、毎晩浴びるほど飲んでドンちゃん騒ぎをしてました。といっても大抵はどっかの合コンの人数あわせとかに呼び出しをかけられ、私は純粋な盛り上げ役で終わってましたけど。でもそのせいか私の周りには絶えず色んな男性がいましたが、この頃はあんまり真面目にお付き合いはしてませんでしたね。広く浅くって感じですか?

ピアノの方はなんとなく壁みたいなものを感じていて、どうしようか迷っていた大学4年の時に大学の先生がいつも参加されていた音楽祭に私も行くことにして、そこから「海外留学」を考えるようになりました。ま、一度決めたら行動力だけはあるので、あっという間に留学先と師事する先生を決めて、あとは親の説得だけ。この辺は要領を得てるので「勉強の為」とあっさり納得させて了解をもぎとり、気がついたらオランダに来てました。

元々留学を決めた理由は室内楽をやりたかったから。なので、相手さえ見つければ色々弾いてました。気がついたら、アマチュアコーラスの伴奏だの、作曲家の初演とか、CDレコーディングや、ラジオ出演、コンサートツアーとか、かなり忙しくしていた学生時代でした。こういう校外での活動も単位に認められるので、レッスン以外は全部この校外活動で単位をもらって卒業しました。でも悲しいかなこれだけじゃ食えないんですよねぇ。。。

で、学生時代最後の年にどうしようかなぁと迷っていた頃に出会ったのが今の彼。卒業の頃にはまだ半年しか付き合っていなくてこれは悩みましたね。「日本へ帰れば音楽は続けられるし、食いっぱぐれないだろう」or「オランダに残るんなら、食う道を考えないといけないから、音楽を続けるのは難しいなぁ」。最終的には「なるようになるさ!」とオランダに残ることにしました。

そこからは大変。学生ビザだと働けないし、音楽以外はアルバイトしか経験なくて、会社勤めなんかできるの?って感じ。で、解決案は「労働許可をとってくれる日本企業で英語と日本語が使えるからと言って働く」こと。そうと決めたら後は行動あるのみ。オランダ日本商工会議所に電話をして、その当時の就活の情報を聞き、そこに登録してある日本企業のリストを買い、あとはアルファベットのAから順番に電話かけまくりました。

Kまでかけて大体100社。そのうち「履歴書を送ってください。」と言われたのが約10社。そのうち3社から面接に呼ばれ、とうとう1社に就職が決まりました。ということで、すぐにOL生活が始まりました。もうとにかく戸惑うことばかり。ワードのタイプ位しかできない人がいきなりオフィスワークですからねぇ。今考えても「よくあの会社、私を雇ったな」と思いますが、それだけ当時人手不足だったということです。そこでエクセルという存在を知り、コピー取りも1枚ずつではなくて資料を纏めて何部コピーしてホッチキスでとめるなんていう、今でこそ当たり前と思えるやり方を一つずつ覚えました。

その会社では色々よくしてもらいましたが、ここには書けない理由(笑)でやめることにしました。その時に募集を出していたのが日系の銀行。世の中のことを全然知らない私でも知っている銀行名だったので、駄目元で応募したらなぜか雇ってもらえました。今でも雇って頂いた元上司はすごい英断をしたなぁと思います。まぁそれはおいておいて。

銀行という特殊な環境で、しかも現地採用の日本人は女ばっかりで、私が一番年下のペーペーというこれまた特殊な環境。やっぱりここには書けない色んなことがありました。私も若かったし、それだけ生意気だったってことですねぇ。随分人生勉強をさせてもらったと思いますが、その時は正直やっぱりきつかったです。その環境から抜け出したくて「なんとか転職してやる」と思ったわけです。

とはいえ簡単に転職できるほど甘い市場ではないんですね。外資を狙うと必ず言われるのが「あなたには学歴がない」と。つまり音大はこちらでは「大学」のカテゴリーには入らないわけです。頭にきましたね、馬鹿にされた気がして。「それなら学歴をつけてやる!」と思ったきっかけが、その当時うちの彼がMBA(経営学修士)を取るために通っていたビジネススクールの宿題。生徒5人で企業の財務諸表を分析してみんなで協力してレポートを書くという宿題だったんですけど、それって普段私が銀行でやっていた仕事と同じ内容。MBAの卵が5人もいて(その中にはオランダの銀行員もいたにもかかわらず)それができなくてと毎日喧々囂々やってるわけです。その喧嘩に近い話し合いを聞くのが嫌になって結局私がそれを代わりに仕上げたんです。「ビジネススクールの授業ってこんなに簡単なら、私だってできるかも」と思えたきっかけです。それで私も同じ学校へ行くことにしました。

とはいえ、そんなに簡単に学歴は取れませんでした。当たり前ですけど。毎授業すごい量のテキストを読まされるし、試験、レポート書きに追われて、私生活は全くない2年を過ごしました。ちょうどその頃仕事も忙しくって毎日家には寝に帰る生活だったので、体力的にも精神的にもかなりきつかったですね。でも、そこで学んだことってかなり役に立ったと思います。授業の内容より、ポイントつかんだ資料の読み方、勉強の仕方、レポートの書き方などなど、勉強するという過程で学んだことはたくさんありましたね。あと、西洋式の思考回路も。

で、そういう生活に限界もあって転職しました。念願の外資系の銀行へ。オランダの某銀行だったので、日本人の皆さんには「なんで今より格下の銀行へ行くわけ?」と随分言われましたが、私の中では外資系銀行のほうがかっこよく見えたのと、日本人同士の諸々から逃れたかったのもあります。で、期待いっぱいで入った銀行でしたが、そこの銀行で学べることが余りに少なかったこと、ビジネススクールまで行って得た知識はそこでは無用の長物。「このままだと私はここで成長できない」というあせりもありました。ただ修士論文がとにかくなかなか終わらなかったので、それだけ片付けてから就活をしようと自分の中で決めて、とりあえず論文を片付け、それからまた就活。運よくすぐに次が見つかり、結局別のオランダ(現イギリス)の銀行へ就職が決まりました。

こちらでは毎日がとても充実していたし、色んな経験もさせてもらえました。出張とかもあって体力的には大変でしたが、とにかく好きなことを好きなだけさせてもらえてたので、楽しかったですね。ただオランダの場合、新しい仕事に就くと大抵はまず1年契約で、その後やっと永久雇用契約に切り替わるんですね。運悪くその頃に金融危機が起こり、銀行はそのあおりをくってガタガタ。そんな中見つかったのが私の癌。始めは1度手術すれば終わりと言う話だったので、そのまま復帰するつもりだったのに、手術中に検査では見つからなかった癌が見つかり、治療方針はどんどん変わっていき、ずるずると治療は長引く一方。銀行のお財布事情はその間どんどん厳しくなり、最終結論は「ジャパンデスクは閉鎖」。はい、クビですよ、私。ということで泣きっ面にハチってこのことか?と思えるくらい事態は最悪な方向へ。

でも物事は考え方次第。オランダは社会保障がすごく整っている国なので、手厚い失業保険がもらえます。治療だって自己負担は健康保険だけであとはゼロ。しかもこの状態では就活なんて無理という判断されるので何もしなくて良いわけです。これこそチャンス!とばかり、旅行したり、好きなもの買ったり。イタリアへ料理修行に行ったりしましたしね。(笑)ま、この辺はブログの中に詳しく書いてある通りです。なので、逆に仕事があれば調子がいいときはパートタイムでも何%かは働かないといけないわけですから、クビのほうがいいじゃん!とも言えるわけです。と言うわけで、これまで払い続けた高い税金(オランダの所得税の最高税率は52%!)を取り戻すべく、スローライフを満喫している最中です。

ちょっとした自己紹介のつもりがこんなに長くなってしまいました。最後まで根気よく読まれた方、どうもありがとうございました。


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